タイム社との最初のコンタクトは、以後の多難を予感させるものだった。ロックフェラーセンターにある本社を訪ねるアポイントメントを取っていたのは、全米を震撼させたあの9月11日。タイム社にも炭疽菌入りの手紙が届いたことから、訪問はキャンセルになった。
1カ月後に実現した訪問で、相手はいたって冷ややかだった。「このアジア人は一体何をしに来たんだ?」という気持が表情に表れているような気がした。しかし、そんなことで引き下がるわけにはいかない。それからも適当な間隔を置いて、気軽に食事をしながら話をする機会を設け、メイドインジャパンの品質の高さ、丸紅の紙パルプビジネスにおける強さを懸命にアピールし続けた。
先方も次第に丸紅に興味を持つようになり、具体的な成果は何もなかったが、「これからも情報交換の場を持ちましょう」と言ってくれた。
そんな状態が1年近く続いた。そしてついに「印刷のテストをしてみましょう」という言葉を聞くことができたのだった。
「当時、タイム社は出版用紙には困っていなかったものの、米国の市場では出版用紙の不足/高騰の兆しが見え隠れしていました。タイム社としてもリスクヘッジの手段のひとつとして、丸紅のルートを検討しておいてもいいのではないかと考えたのでしょう」
印刷テストの場所は、世界一の規模を誇る印刷会社RR.ドネリー社。宮本は日本から送られてきた紙への期待に胸を弾ませた。しかし、結果は芳しくなかった。タイム社の雑誌「タイム」「スポーツイラストレイテッド」「ピープル」などはどれも非常に薄い塗工紙を使う。特に人のアップで肌をきれいに出すなど、品質には非常に独特のこだわりがある。日本から持ち込んだ紙ではその品質がクリアできなかったのだ。日本の印刷・紙の品質に絶対の自信を持っていた宮本にとってこれはショックだった。
「主な原因は日本の紙に古紙が混じっていることでした。アメリカではこの手の紙に古紙を混ぜることはしません。しかし、日本の製紙メーカーにも事情があり、タイム社だけのために古紙を使わない紙を製造することはできない。薬品を入れるなど、他の改善策を検討してもらいましたが、『コストがかかる』といった意見もあり、なかなか品質改善は進展しませんでした」
大きな問題は当の製紙メーカーが及び腰になっていることだった。長年日本国内で系列の販社を通じて安定したビジネスを続けてきた製紙業界にとって、タイム社のように米国市場で最も困難な相手に対して、そんなに大きな犠牲を払ってまで顧客開拓の努力を続ける必要はないという気持がある。
しかし、丸紅の考えは違った。新たな市場開拓を怠れば、どんなビジネスでもやがて衰退する。商社はどの業界でも真っ先にその危機を見極め、新しい可能性を開拓することで生き延び、発展してきたのだ。将来への展望が見える商社は常に、それが見えない取引先を説得しながら、プロジェクトを牽引していくしかない。
宮本は何度も日本に出張し、製紙メーカーの営業や工場の生産技術者たちに、米国市場開拓の重要性について熱弁をふるった。ワシントン州にある製紙メーカーの現地販売拠点にも
「日本の製紙メーカーが海外ビジネスに注力する時代は近い将来必ずやってきます。その基盤を築くためにも、絶対にここで退いてはいけません」
と力説した。 |