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困難な状況の中、唯一の救いは製紙メーカーの技術者たちが本気になってくれたことだった。営業サイドがビジネスの観点から消極的になったのに対して、彼らは技術者として日本のモノづくりが海外に通用しないということが我慢できなかったのだ。宮本も彼らの心情を察し、
「この程度の課題がクリアできないんですか?」
とその技術者魂を刺激し続けた。
さらに営業も含めて製紙メーカー全体をその気にさせた大きなきっかけは、彼らがRR.ドネリー社のテスト現場を視察したことだった。それまでに宮本は、何度もテストを繰り返しながらドネリー社の担当と気心を通わせる間柄になっていた。夜更けのテストに立ち会うときなどは、ドーナツを差し入れ、現場の仲間と一緒にほおばりながら、フランクに意見をぶつけあった。
日本から来た製紙メーカーの人々は、宮本と米国を代表する印刷会社の現場が一丸となって困難に立ち向かっているのを目の当たりにし、丸紅がどれだけ本気か、そして米国にどんな可能性が開けようとしているかを感じ取ったのだ。
そしてついにタイム社がテストの結果にOKを出す瞬間がやってきた。宮本が米国に赴任して4年の月日が流れていた。その前年には、東京から先輩がニューヨークに赴任し、宮本は西海岸でのテストや日本の製紙メーカーとの連携に専念できるようになっていた。その先輩とは、赴任直後の宮本を励まし、タイム社開拓へ背中を押してくれた人だった。
しかし、事態はそこから先も思うように進まなかった。テストはクリアしたものの、米国の印刷用紙市況が好転したため、タイム社が日本からの調達を見合わせたのだ。さらにその年、宮本に帰国の辞令が出た。当然、自ら手がけたタイム社開拓プロジェクトへの未練はあったが、膠着状態に陥った案件のために、ジョブローテーションを拒んで米国に留まるわけにはいかない。宮本は先輩と米国の仲間たちに後を託して帰国の途に着いた。
事態が急転したのは2007年1月、丸紅が出版業界に強い米国のブローカー(卸会社)を買収し、100%子会社としたことがきっかけだった。この会社にニューヨークの先輩が出向し、タイム社への売り込みを行ったところ、秋になって数量は少なかったが、初めての受注に成功したのだ。このニュースは即座に日本の宮本にも伝えられた。米国チームを離れたとはいえ、タイム社へのアプローチを開始し、様々な困難を経て厳しいテストをクリアして、ビジネスの道筋をつけたのは彼だからだ。
「今回の展開を見ていて、つくづく商社ビジネスの幅の広さ、面白さを感じました。ひとつの手段で行き詰まっても、他の手段を講じることで、事態を打開できるわけです。もちろんブローカー買収はタイム社開拓だけではなく、米国の出版業界開拓という大きなメリットを狙って行われたものですが、広い視野と組織力を駆使して、複雑な市場で様々な成果をあげていくことができるところに、この米国市場開拓プロジェクトの醍醐味があると言えるでしょう。私はその初期段階を担ったわけですが、タイム社という象徴的な難関を突破するために、日夜知恵を絞り奔走するという仕事ができたのは、とても幸せだったと改めて思います」
今、宮本は情報用紙という新たなビジネス分野に取り組みながら、さらに時代の先を見つめ、紙に代わる新しいメディアも含めたビジネスの可能性を考えている。丸紅の用紙ビジネスはこうしたプロフェッショナルたちによって、これからも時代の一歩先を走りつづけていくだろう。 |
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